結局は霊
私は44年生きていますが、これまでの出会いを考えても思います。
私の場合、何年そばにいても分かり合えず苦しみを与えられる存在でしかない相手と、ほんの数ヶ月程度の関係でも深い愛を与えて頂ける方と、両極端なのです。
後者の、「ほんの数ヶ月程度の関係でも深い愛を与えて頂ける方」というのは、私が認知している範囲ではお二人いらっしゃいます。
どちらも男性です。
お二方とも、私と…ある意味「家族」になりたいと思って下さった、と私は考えております。
(家族の定義がここではうまくできませんが)
様々な困難を経て、お二人が私に霊的な愛を授けて下さっていると感じるのです。
だから、お二人とも…キリスト教的な意味で「愛しています」。
私は、家族に精神的に大切にされた記憶がありません。
物質的にはある程度、守ってもらえた部分もあるかと思いますが、精神的霊的にはかなり長いこと傷つけられて来ました。
しかし、頻度は多くないものの、暴力的なこともありました。
そういうわけで、かなり辛い人生でした。
今も辛いです。
食欲も常にないです。
物質的にはある程度色々あった方が良いとは思います。
でも、最低限のものがあれば良いと思えるようになって来ています。
ミニマリストとまでは行かないですが。
それよりも、結局は霊的充足なのです。
霊的に満たされていることが大事です。
そのことを日々強く感じています。
そのためか私の上の世代、55歳以上で恵まれた生活をしている方々、特にそのくせして他者の苦しみに寄り添えない方々に対して、ある種の失望や軽蔑を覚えるようになりました。
もちろん「失望」「軽蔑」と言った負の感情は良くないです。
増幅させるとサタンに取り込まれます。
しかし、だからと言って上記のような方々と和気藹々過ごすのも、自分の中で違和感を覚えるようになりました。
面と向かって批判するつもりはないですが、あまり親しくはできないと思うのです。
つまり、結局は霊なのです。
ロストジェネレーションの私たちだからこそ高められるものがあるはず。
それを、イエス様は教えて下さいます。
きっと。